ミニマリストの小宇宙

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ミニマリストの小宇宙

minimalist's microcosm

「好きな服」と「似合う服」。ファッションと自己表現

 

好きな服と似合う服が一致しないというのは、現代人の贅沢な悩みのひとつである。

 

わたしも例に漏れずこの贅沢病にときどきかかるようで、季節の変わり目に「着たい服がない」などと悩んでみたりする。

シンプルで垢抜けたファッションや颯爽としたスタイルが好みだが、わたし自身は別に颯爽ともしていないし垢抜けた人間でもないから、残念ながらそういうものは似合わないのである。寒い季節には薄手のタートルネックがわたしの「好きな服」と「似合う服」の両方を満たす。しかし暖かくなると着たい服がない。毎年同じことを考える。不毛である。

 

「着たい服がない」のは、「わたしの好みに合い、かつ似合う服」というごく狭い範囲を考えているからだ。

ないものねだりをしても仕方がない。

着たい服がないならいっそ似合う服を着てはどうかと思いついた。

これまで「似合う服」を着なかった理由を突き詰めて考えると、そこに自意識があるのを発見した。

 

 

「ファッションにはあまりこだわらない。ごくふつうの、シンプルな服で十分」。

 

そう思っていた。

正確には、「そう思っていると思っていた」。

もっと言えば、「そう思っている人物に見られたかった」。

 

わたしはファッションで自己表現をしようとしていたと思う。

ファッションによって、「オシャレや美容にばかり気を遣っているタイプとは一線を画し、ファッションや流行にはあまり興味がなさそうだが、ごくシンプルな服をさらりと着こなし、飾り気がなく、しかしさりげなくセンスが感じられ垢抜けている」というようなイメージを与えたいと願っていたと思う。

オシャレや流行にあまり関心がないのは事実だが、「ファッションにこだわらない」というわけではなかったのだ。むしろ大いにこだわっていた。だからこそ「着たい服がない」のだ。

 

わたしがこだわっていたのはファッションそのものというより、それが相手に与える自分のイメージであった。

 

わたしはハリのある素材ものはあまり似合わないが、柔らかいものは比較的似合うようで、シャツよりはブラウスが、パンツよりはスカートが似合う。

これまでそういう装いをしなかったのは、自分の好みとは違うということもあったが、可愛いものが好きないかにも女性らしいタイプだと思われるのが嫌だったからだ。

 

自分のセルフイメージと異なる像を描かれることは心外だと、ずっと反発してきた。そのために特定のファッションを避けていた。「似合う服」を着ない、それがわたしの選択肢を大いに狭めていたのだ。 

 

しかし最近考えが変わった。

 

「どうとでも思わせておけばいい」。

 

会う人すべてに自分がどのような人間か分かってほしいというのは土台無理な話だ。

どうしたって誤解はあるし、他人である以上、どれほど打ち解けても本当の理解ということは難しい。

そもそも、ちょっと仕事で顔を合わせる程度の人にまで「自分がどのような人物か分かって」もらう必要はないし、そのようなことを望んでいるわけでもない。

 

「分かって欲しい」というより、「誤解されたくない」ということだったのだと思う。「可愛いものが好きないかにも女性らしいタイプ」と思われたところで、別に困ることなどないはずなのだが。

 

ファッションは自己表現だと、アイデンティティだと言う。しかし必ずしもそうである必要はないのではないだろうか。見た目と中身とが一致している必要はないのではないだろうか。ファッションで自分を表現する人がいるように、ファッションで理想の自分を演出する人がいるように、ファッションと自己表現をあえて切り離すというのもひとつのやり方だろう。

 

すべての人に自分をわかってもらう必要はない。

わたしがどのような人物か、肚の中で何を考えているか、必ずしも外に向かって表現する必要はない。表現するにしても、その手段はファッションである必要はない。第一それだけでは不十分である。

 

ファッションは第一印象を左右する重要な視覚情報である。どのみち誤解が避けられないのなら、逆に考えたらどうだろう。誤解されるのを恐れるのではなく、かえってそれを楽しむのだ。

見た目通りより、ちょっとギャップがあるくらいが面白い。