電子マネーで香典を出す日は来るか。
通夜の席でそんな不謹慎なことを考えていた。
結婚のご祝儀などはまだハードルが高いが、もう少しラフなもの、出産祝い、入学祝い、就職祝いなどでは、お祝いにギフトカードを送ることにそれほど違和感はない。入学祝いに図書券などはむしろ定番であると言える。
「現金」ではなく「もの」で渡すことも多いお祝いの場合、ギフトカードなどを送ることも非常識とは思われない。金券の類は、「お金」よりも「もの」に近い感覚があるのかもしれない。
ご祝儀は現金で渡すから、これを振込で、とか、電子マネーで、というのは今はまだ非常識なことだが、将来的にはいずれこういうことも許容されていくのかもしれない。
お祝いの場合は比較的寛容な気がする。
お悔やみの場合はどうだろう。どんなにキャッシュレスで生活できるようになっても、そういう場合にはやはり現金で、ということになるのだろうか。
しかし、現金が特別なときにしか使わないものになってしまうと、「新札を包むと準備していたようでダメだ」というのと同じロジックで、「現金で香典を渡すなんて、まるで死ぬのを予測して準備していたみたいだ」ということにはならないだろうか。
コンビニの、iTunesカードなんかが並んでいるところに、香典袋の水引のイラストが描かれたカードが並んでいる未来。お悔やみの際は、これを買って渡す。
もちろん結婚祝い用のカードもある。こちらはキラキラして華やかなデザイン。
オーダーメイドでオリジナルのデザインを作ったり、思い出の写真をカードにすることもできそうだ。昔のテレホンカードみたいに。(かつてはそれこそ新郎新婦の写真入りのテレホンカードが配られたりしたらしい)
もしくは、カードを渡すという体裁すらなく、受付で記帳とともに端末に入力してご祝儀や香典を振り込む。
喪服に身を包み、読経を聞きながらそんな未来を想像する。
このような場に出席するとき、毎日たくさんの人が亡くなって、そのすべての人にこれら一連の儀式がある、ということを思わずにはいられない。我々は、365日のうち、どれだけの日数を喪に服して過ごすのだろう。歳を重ねるにつれ増えていく喪の日。いつか訪れる、自分自身の儀式の日。
それまでに、「電子マネーで香典を出す日」は来るだろうか。
一度きりの結び切り、涙をあらわす薄墨。
うつくしいはずの意味は、やがて「こうしなければならない」「間違えると恥ずかしい」という不文律となる。
それでも、こういうものを求めるのが人間なのかもしれない。
通夜も葬式も、このような儀式を必要としているのは、本当は死者よりも残された者の方なのだろう。