ミニマリストの小宇宙

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minimalist's microcosm

付録のバッグはなぜ魅力的に見えるのか?

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ホタルイカには2つの目玉が飛び出ている。わたしはこれがわりと好きである。

 

どうやらこれはジャガ芋の芽であるとか、もやしの髭であるとか、海老の背ワタであるとか、そういった類のものらしく、可能な限り取り除くことが望ましいとされている。たしかに、料理の小鉢などで提供されるホタルイカに目玉はついていない。

 

徳川家康だか豊臣秀吉だか忘れたが、有名な武将が鮭の皮を好んだというのは有名な話だ。この部屋いっぱいの鮭の皮を食わせてくれた者には褒美をつかわすとか、そんな逸話も聞いたような気がする。

 

下手物だから美味い、ということもあるだろうが、これには希少性が関係しているのではないかと思う。最近では、「メロンパンの皮」なんていう商品もあるようだが、鮭の皮にしろメロンパンの皮にしろ、本来それはメインではなく付属品なのである。しかし付属品であるからして、それだけを手に入れることはできない。だからこそ余計にいいもののような気がしてしまうのではないだろうか。おまけというのは良く見えるのだ。人々は、なんだかやけにありがたい「おまけ」の威光によって、単独で売られていても見向きもされないような粗悪な付録の付いた、欲しくもない雑誌を買ってみたり、パンのシールを集めてみたりするのである。

 

鮭の皮は、鮭といっしょにしか手に入らない。それも、身に対してほんの少しの量である。珍味というのはまさしく、珍しさ、希少性こそがその美味しさなのだ。実際その部位だけを取り出して与えられてしまうと、とたんに興ざめがするものである。

 

仮に鮭が皮ばかりの魚であったなら、鮭の皮は珍味とは成りえない。身分の高い人にとってはなおさら、希少な身の部分がもてはやされることであろう。「どちらが美味しいか」ということではないのだ。もしも松茸がそのへんにごろごろ生えていて、梅雨には家庭にまで生えるというものであったなら、その香りはありがたみを失い、悪臭とさえみなされるかもしれないのである。

 

我々は、「美味しい」ということさえ、その食べものにまつわる情報の影響を受けてしまい、純粋に判断することができない。有名店のシェフが作ったと言われれば、それだけで美味しいような気がしてしまうものである。

 

ホタルイカは、ある時期にしか店頭に並ばない。その季節性の希少性もまた、ホタルイカの美味しさを増幅させているように思う。「今しか食べられない」というのは、「美味しさ」を増幅させる情報なのである。「旬のもの」には、2重の美味しさがあるのだ。

 

ホタルイカそのものが、ある時期にしか食べられないという希少性を持ち、さらにその目玉は希少部位である。それもふつうは捨てる部分なのである。珍味として申し分ない。珍味は珍しいから珍味なのである。ホタルイカの目玉だけ、鮭の皮だけ食べたいなどというのは「珍味の希少性」を台無しにする発想であり、よもやそれが実現した日には、落胆を招くに違いない。それはすでに価値の大部分を失っている。

 

付録のバッグの場合も、その価値は、雑誌を買わなければ手に入らない「付属品」であることに由来する。

おまけとしてついてくる「お得感」があり、数こそ希少でないものの、「雑誌が店頭に並ぶ今しか買えない」という意味での「希少性」もある。

 

もし仮に、付録のバッグが付録としてではなく「商品」として同じ値段で売られていたとしても、申し訳程度にロゴの入った安っぽいバッグには、誰も見向きもしないだろう。