手段が目的化?
ミニマリストは目的ではなく、手段であるべきだ。という主張をよく目にしますね。
「一部のミニマリストは、ミニマリストという手段が目的化している」という批判も。
(そもそも、ミニマリズムは主義・思想なので、手段でも目的でもないです。)
あなたはなんでミニマリストなの? 何がしたいの? という質問に対しての私の正直な回答はこちら。
「目的はありません。ただ、今この瞬間を、心地よく生きたいと思っています。そのためには、モノを捨てることも厭いません。」
あらゆる「目的」は、「最終目的」のための「手段」
ケーキを食べている人に、「あなたがケーキを食べる目的とは何ぞや」と聞けば、たいていの人は、「目的はありません。食べたいから食べるだけです」と答えるのではないでしょうか?
ただし、プロ棋士の方は「ケーキを食べる目的は、脳に糖分を補給し、将棋で相手に勝つことだ」と答えるかもしれません。
あらゆることの目的は、最終的には「幸せになること、幸せを感じること」だということができます。
ですが、
手段(ケーキを食べる) → 仮目的(将棋での勝利)→ 最終目的(幸せ)
のように、「わかりやすい仮目的」がある場合は、それが目的であるかのように錯覚してしまいます。
本当の目的は、もちろん、幸せになることです。
手段(ケーキを食べる) → 最終目的(幸せ)
これが単純に成り立つ場合、今度は「ケーキを食べることに、特に目的はない」ように錯覚してしまうのです。
実際には、「幸せを感じる」という目的があるのに、です。
「ミニマリストになることに、特に目的はない」と感じている人は、実は「ミニマリストであること」が、そのまま「幸福度」をあげることに直結する人なのです。
ここが、「上質な暮らしをするため」とか、「家事を楽にするため」とか、「旅に出るため」とか、何かしらの理想の生活 (これが仮目的です) のためにミニマリストを目指す人と大きく違う点です。
「ただモノを持ちたくないだけのミニマリスト」には、仮目的がありません。
何か目的があってモノを減らしているのではなく、持っていたくないから、「減らしたいから」減らしているのです。
このタイプには、「断捨離の方法」だとか、「どうやったら手放すことができるか」とかいったようなハックは必要ありません。だって手放したいんですから。
捨てすぎて逆に不便になってしまうのも特徴です。
一見こじらせているように見えますが、本人にしてみれば、ないほうが幸せだから、筋は通っているのです。
(生活感のない部屋に憧れてモノを減らす人とは、そもそも考え方が違うのです)
「手段」であることの危うさ
では、仮に、「流行りのミニマリストになって、モテて、恋人をつくりたい」と思ってミニマリストを目指している人がいたとしましょう。(たとえがひどいですね)
モノを減らすだけでは、幸せじゃない。モノを減らすのは、恋人をつくるため。だから捨てるハックや後押しが必要。
でも、この人は、実はミニマリストにならなくても幸せになれます。恋人ができれば、幸せなのですから。手段はなんでもいいのです。
モノが少なければ、家事は楽になります。
しかし、仮に、家事もモノの管理もすべてしかるべき人や機械がやってくれるとしても、必要以上には持ちたくないのです。
これは好みの問題だと思います。
「目的」は必須ではない
「目的がない」ほうが批判の対象になりがちですが、
はっきりした目的がある人ほど、実は疑ってみる必要があるのでは? というお話でした。
私は上記のようにたいへん身勝手な理由でミニマリストをやっている者です。
明確な目的はなく、ただ自分が心地いいように、好きなように暮らしているだけです。
目的なんて、なくてもいいんですよ。