私は自分の楽しみのためにブログを書いている。考えることや、文章を書くことが好きだ。
ブログを効率よく早く書くということはあまり考えない。趣味の時間だからだ。
人から見れば無駄にしか見えないようなことでも、自分にとって価値があればいい。
同じ会社で働く2人を考えよう。
Aさんは毎日最短の通勤コースを使い、Bさんは毎日違うコースを使う。
Aさんから見ると、Bさんは無駄な時間を使っているように思える。
しかしBさんにしてみれば、たくさんの選択肢があるのに毎日同じ道しか通らないAさんは損をしている、と感じるかもしれない。
Bさんにとっては、毎日違う道を歩くことで、面白そうな店を見つけたり、いつも新鮮な気持ちでいられたりすることは、通勤時間を数分短縮できるより意味があることなのだ。
両者は目的が異なる。だから、目的達成のために最適な方法が異なる。
Aさんの目的は、会社に早く着くこと。
Bさんの目的は、通勤を楽しむこと。
それぞれ、自分の目的に対して「合理的」な方法を選んでいるのである。
「最短」なコースはひとつしかない。しかし、「最適」なコースは人によって違う。
時間をかけることが楽しいと思うことには、時間を使えばいいのだ。趣味の小説を読むのに、速読をする必要はない。
合理的とは無駄を省くことではない。自分の幸せのために最適な道を選択することである。
だから、合理的に生きている人というのは、人から見ればけっこう「無駄だらけ」であることが多い。
わたしの場合は「本を読んだり、インターネットを見たり、ブログやノートに駄文を綴ったりしながらゆっくり過ごす」ことの効用が高い。
よって、「合理的に生きている」ようには全く見えないのであるが、それはそれで、合理的なのである。