國分功一郎氏の文章をきっかけに、シンプルということについて考えた。
究極のシンプルとは、「自分」ではないだろうか。
要らないものを削ぎ落として、最後に残るもの。
生まれた時から、死ぬ時まで、ずっと変わらない唯一のもの。
それが「自分」という存在。
社会や家庭においてどういう立場の役なのか、誰とどんな関係の付き合いをするのか、どういう装いをして、どういうものを持つのか、食べ物はどんなものを好むか、あらゆることは変化するけれど、自分という存在は変わらない。
生まれた時から常に変わらない自分という存在に、その時々で必要なものを足したり引いたりしていくイメージだ。
必要がなくなったものをいつまでも引き算できずににいたり、まわりに流されるまま足しすぎてしまったりする人は、付属品に埋もれてしまって、自分を見失ったり、わからなくなってしまうのではないだろうか。
足しすぎると身動きがとれなくなるのだと思う。
考えるのも行動するのもおっくうになって、ますますまわりに流されてゆくのだと思う。
世の中は「足すべきもの」をしきりに勧めてくる。
マイカー、マイホーム、流行のファッション、一生使える高級品、最新の家電、話題の習い事、便利なキッチングッズ、果ては、英語はこれからの時代に必須、とかいうものまで。
「自分」がわかっている人は、流されることなく必要なものを適切に加減できる。
シンプルとは、「自分」のほかには何もない状態のことではない。
そのような極限状態というのは、それこそ「ただ生きているだけ」に等しい。
生存のための必要最低限ではなく、自分が心地良い環境のために、誰かと関係を持ったり、趣味を楽しんだり、好きなものを身につけたりすることはあるだろう。
適切な足し算であれば、自分の輪郭がわからなくなるような事態にはならない。
この「自分というものがわかっていて、適切な関係や付属物を持ちながらも、自分の輪郭ははっきりしている」状態が、「シンプル」なのではないだろうか。
シンプルとは、「常に同じである」ことではない。
付属物、つまり、人間関係や仕事や持ち物やライフスタイルなどは、その時々の「自分の必要や心地良さ」によって変化する。
ちゃんと自分が見えていれば、輪郭がはっきりしていれば、たとえ環境が変化しても、適切に「加減」をすることで常にシンプルでいられる。
自分が見えないほどに付属品を身に着けているのであれば、まずは引き算をする必要があるだろう。
これは、何もかもを手放して、何も持たずに生きていく、ということではない。
足しすぎはもちろんのこと、引き算に固執しすぎることも、シンプルからは遠ざかる行為である。
付属物を取り払って、自分の輪郭が見えている状態にするのだ。
そうすれば、國分氏の言うように、自分にとって心地良い状態というものは自然に作られていくのではないだろうか。
なんとなくだが、自分が目指す「シンプル」というものがわかってきたような気がする。