「捨てました」という言葉には、どこかうしろめたさがあるのだと思う。
まだ使えるものを捨てるなんてもったいない。贅沢だ。ミニマリストなんて金持ちの道楽だ。
「断捨離しました」という言葉には、ポジティブなイメージがある。
古いものを捨て、前に進むような。そこに罪悪感はない。
「断捨離しました」という言葉を、「捨てました」という意味で使う人は多い。
「断捨離」という言葉を使えば、「捨てる」という言葉が孕むマイナスのイメージは払拭される。
もちろん、単純に「断捨離=捨てる」だと思っている人も多くいるのだろう。
このブログでは、これまで「断捨離」という言葉は使っていない。
「断捨離」は単に「捨てる」こととは違うからだ。
断捨離は、「もったいない」という固定観念に凝り固まってしまった心を、ヨーガの行法である断行(だんぎょう)・捨行(しゃぎょう)・離行(りぎょう)を応用し、
- 断:入ってくるいらない物を断つ。
- 捨:家にずっとあるいらない物を捨てる。
- 離:物への執着から離れる。
として不要な物を断ち、捨てることで、物への執着から離れ、自身で作り出している重荷からの解放を図り、身軽で快適な生活と人生を手に入れることが目的である。
たとえば「TVの断捨離」と言うとき、単にTVというモノが部屋にない状態を指すのではない。
仮に、「壊れたから仕方なく捨てたけれど、お金がなくて新しいTVを買うことができない」という場合には、TVというモノが部屋からなくなっていても、「断捨離」とは言わない。TVが欲しいとか、見たいとか思っているうちは。
「断捨離」でいちばん難しいのは「離」だとよく言われるが、いちばん大切なのもまた「離」であると思う。
持たないことや捨てることに拘泥すると、断捨離の目指す「身軽で快適な生活」とはかえって離れてしまう。
断捨離で自由になるはずが、かえって執着が生まれてしまうのだ。
たとえば、「他の家族にとっては必要なTVだが、どうしても捨てたくて仕方がない」というのは、「TVを捨てることに執着している」ともいえる。
「すっきりした空間」は、TVを捨てないと難しいかもしれないが、
「TVを見るのに時間を費やしたり、余計な情報に心を煩わせたりすることのない暮らし」は、TVを消すだけで手に入れることができる。
家族がいて「捨」ができない場合には、「家族がいるから捨てられない。断捨離できない」と思うのではなく、「離」の方を意識するというのもひとつの方法だと思う。
執着を手放すには少し距離を置くと良い。
かえって大切さに気が付くことも稀にあるが、たいていの場合、距離を置くと興味も薄れていく。
誰かと一緒に暮らしていると、住環境を100%自分の好きなようにすることは難しいが、
執着を手放す、ということには、他人に相談したり同意を得たりする必要がない。
自分の心ひとつだ。