飛行機の窓から見る世界と、見られている側の世界
こういう時代なので、わたしのような一般庶民でもたまに飛行機に乗って海外旅行など行くことがある。
飛行機の小さな窓を覗くと、雲の切れ間に海や地上が見える。
まるで現実感のない風景。
眼下に広がる、グーグルマップではない本物の世界。
四角いディスプレイには収まりきらない広大な世界。
こういうときわたしはいつも、「宇宙から見た地球」のことを考える。
大気圏内から見た地上でさえ実感を感じられないわたしは、仮に宇宙から地球を見ることができたとして、やっぱり実感は感じられないのだろう。
海は青く、陸地は緑色だ。
海の色が違う部分は深さが違うのだろうか、などと思い巡らす。
この景色の中に、何千何万といるはずの人間は、ひとりも認識することができない。
あまりに遠くて、「ゴミのよう」ですらない。
見えないけれど、たしかにそこに生活する人々。
いつもは見られている側のわたしが、今日だけ眺める景色。
この景色を見ていると、世界を飛び回るような人と、一定の場所にとどまり生活する人とでは、考え方が違ってしかるべきだろうな、という気になる。
前者は飛行機の窓の景色が日常の中にある人だ。
世界のスケールを日常的に感じている人。
生活が世界と地続きにある人。
眼下の景色は、後者の人々の生活範囲の集合だ。
ひとりひとり大きさの違うそれぞれの世界が幾重にも重なっている。
はるか上空から見下ろすその世界は、なんと小さいことだろう。
だからといって、「世界を飛び回る人」になりたいかというと、そういうわけでもない。
世界のスケールはときどき感じられればいい。そうして思考に刺激をもらえればいい。
見られている側の世界、自分のまわりの小さな世界が、日々の暮らしにはちょうどいいスケールなのだ。
「モノを捨てよ世界へ出よう」
高城剛の「モノを捨てよ世界へ出よう」という本がある。
モノを捨てるのは賛成だ。
「持ち物の量と移動距離は反比例する」という説にも、大いに同意する。
しかしわたしの場合、モノは捨てても、いっこうに世界へ出る気配がない。
ときどきちょっとした旅行に出かけたりすることはあるが、普段の生活に関して言えば、娯楽として買い物に出歩くということがなくなり、世界どころか、かえって家から出なくなっている。
今は、家で本を読んだり、コーヒーを淹れたり、簡単な料理を作ったりして、ゆっくり過ごすのが好きだ。
「自分の部屋が好き」ということももちろんあるが、それ以上に、「刺激を外に求める必要がなくなった」ということがあるのではないかと思っている。
無意味に出歩くことがなくなったのは、おそらく、刺激を外に求めてわざわざ外に出なくとも、生活を楽しめるようになったからなのだ。
かつて娯楽といえばそのほとんどが買い物であった。
物質的でない豊かさを大事に思えるようになったことには、 「モノを捨てた」ことが大いに関係している。
モノを捨てて世界に出る人も、モノを捨てても世界に出ない人も、
これまでとは違う価値観を得たという点ではどちらも前進している。
わたしは「世界へ出ない」方の生活を送っているが、いざ出たいと思えば身軽に出て行ける、そんな根拠のない自信も持っている。
なんというか、不安があまりないのだ。
高城氏の「持ち物の量と移動距離は反比例する」という表現を借りれば、
おそらく、持ち物の量と「新しい環境への抵抗感」は比例する。
たくさん持っているほど保守的になるのかもしれない。
どんな環境も楽しめる人でいたいと思う。