「インターネットで生き方を調べる」
「行き方」の誤変換でできたこの一文に思わず手を止めた。
今はそういう時代なのかもしれない。
わからないことはなんでも検索エンジンに質問。それ以外の方法なんて知らない。
それにしても、「生き方を調べる」というのはいかにも現代風の発想だ。
試しに、「生き方」と入力してみると、予測キーワードで「生き方 わからない」というものが出た。
生き方がわからないと言いながら生きる人々。
呼吸や消化や血液の循環、そういうことはもはや分かるとか分からないとかの領域にはない。
生き方がわからないというのは、おそらく「人生これでいいのかな」的な、自己実現の領域の話だ。
あるいは、コミュニティに所属したり仕事をして収入を得たりする以外の「生き方」を探しているとか。
生きるのが辛いとか、意味を見いだせないとかいう人もいるかもしれない。
そもそも生き方とは何だろうか。
大辞林によると、「生活する態度・方法。人生に対する態度」とある。もちろんこれもインターネットで調べた。
人生に対する態度。たしかに簡単には分かりそうもない。
検索エンジンは「あるものの中から提供する」だけだから、ネット上にないものは絶対に出てこない。検索エンジンが教えてくれるのは、「任意に切り取った、過去の誰かの生き方」までだ。
他人の「生き方」を知ることはできるし、何らかのきっかけを得ることはあるかもしれない。
しかし、他ならぬ自分自身が人生にどう対峙すべきかは、誰も教えてくれない。成功者も、哲学も、最新の人工知能を搭載した検索エンジンも。
調べることができるのは「過去」だけ。
これからのことは、どんな情報であっても「予定」や「予測」でしかない。
インターネットのおかげで、わたしを含む多くの人は、何でも調べられるような気になっている。
読んだだけで分かった気になり、知っただけでやった気になっている。
「情報は集めるよりも使う方が難しい」という言葉を思い出した。
もし仮に、素晴らしい「生き方」をネットに見つけたとしても、今のわたしではおそらくその情報を無駄にしてしまうだろう。
やはり「生き方」というのは「調べるもの」ではなさそうである。
自分の人生や未来が、ネットに書いてあるわけではない。
わからなくてもいい。
描いた理想通りでなくてもいい。
「生き方がわからない」と悩んでみたりしているその瞬間だって、たしかに生きているのだ。