minimalist's microcosm

ミニマリストの小宇宙

シンプルであることはなぜ美しいか

 

 

 

坂口安吾の「日本文化私観」に、わたしがずっと考えてきたことがとても鮮やかに書いてあった。

 

わたしが考えていたのは「見た目が美しいものが使いやすいとは限らないが、理にかなって使いやすいものは必ず美しい」というようなことなのであるが、安吾のエッセイを読んでいただく方が、これよりはるかに伝わるだろう。

 

小菅刑務所とドライアイスの工場と軍艦と、この三つのものを一にして、その美しさの正体を思いだしていたのであった。
この三つのものが、なぜ、かくも美しいか。ここには、美しくするために加工した美しさが、一切ない。美というものの立場から附加えた一本の柱も鋼鉄もなく、美しくないという理由によって取去った一本の柱も鋼鉄もない。ただ必要なもののみが、必要な場所に置かれた。そうして、不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上っているのである。それは、それ自身に似る外には、他の何物にも似ていない形である。必要によって柱は遠慮なくゆがめられ、鋼鉄はデコボコに張りめぐらされ、レールは突然頭上から飛出してくる。すべては、ただ、必要ということだ。

 

見たところのスマートだけでは、真に美なる物とはなり得ない。すべては、実質の問題だ。美しさのための美しさは素直でなく、結局、本当の物ではないのである。要するに、空虚なのだ。そうして、空虚なものは、その真実のものによって人を打つことは決してなく、詮ずるところ、有っても無くても構わない代物である。

 

「美しさのための美しさ」と同様、「シンプルのためのシンプル」というのもまた本当ではない。

 

部屋をすっきり見せるために、あらゆるものを隠す。ちょっと使ったらすぐに収納する。もちろん収納グッズも見た目がシンプルで美しいものを揃える。調味料や洗剤に至るまで、見た目を統一するために容器を買いそろえ、さらにそれだけでは中身がわからないからオシャレなラベルを作って貼る。

詰め替えなければ、ラベルを貼る必要などない。「見た目のシンプルさ」を求めて、余計なことをして、生活はどんどんシンプルから遠ざかる。「シンプルな詰め替え容器」というのはまさに、「有っても無くても構わない代物」なのだ。

 

かつてわたしの心を打ったのは、「シンプルでおしゃれな部屋」ではなかった。

断捨離ブーム以前の、必要なものしか持たない人たち。

彼らの部屋はいびつで、殺風景で、生活感があった。

おしゃれさのための持ち物や工夫はひとつもなかった。

ただ必要なものが、いちばん使いやすい場所に置かれていた。

生々しさが残る寝袋。青白く光るパソコン。黒いコード。

そういったものにこそ惹かれた。

おそらくこれも、「必要のみが要求する独自の形」なのだろう。

 

かつて聞いた話に、TVを横向きに置いているという人がいた。その人はTVを見るときには必ず横になって見るから、この方が良いのだそうだ。一見いびつでも、これが当人にとっては自然で、必然なのである。

 

わたしがこの話で思いつくのは、電気のヒモである。今でこそ少ないと思うが、部屋の電気をヒモを引いて点灯するのが一般的だった時分は、このヒモを延長して、横になったままでも引っ張れるように工夫した姿をよく見かけた。

 

横向きに置かれたTVであるとか、継ぎ足された電気のヒモであるとか、そういったいびつなものに心惹かれるのは、それが必要から生まれたものであるからだ。

 

生活に即した「必要」を、素直に表した姿。それはインテリア雑誌に載っているような、美しさのための美しさではない。そこにあるのは、必要によって成長していったドライアイス工場のいびつで力強い建築のような、たくましい美しさだ。

 

終始一貫ただ「必要」のみ。そうして、この「やむべからざる実質」がもとめた所の独自の形態が、美を生むのだ。実質からの要求を外れ、美的とか詩的という立場に立って一本の柱を立てても、それは、もう、たわいもない細工物になってしまう。

 

暮らしにおける美しさやシンプルさというのは、シンプルな家具や雑貨をそろえたからといって得られるものではない。表面だけ取り繕っても、結局は「空虚」なのである。

反面、「生活のしやすさ」、つまり「必要」を求めれば、シンプルということはおのずからついてくるものなのではないだろうか。

 

シンプルが美しいのは、見た目が整っているからではない。

むしろその逆で、無駄を取り去った「必要」だけがそこにあるからなのだ。

 

これがいちばん顕著に現れているのは、「いきもの」ではないかと思う。

環境や様々な要因で、それぞれに進化していった姿。

使わないひれが退化したり、片方のハサミだけ大きかったり。

 

その姿は一見いびつかもしれないが、必要を求めた結果としての「シンプル」は、強い美しさを持っているはずである。