以前にも一度書いているのですが、ずいぶん昔(中学生か高校生ぐらい)に読んだ本で、今でも忘れられない作品があります。
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彼はカッターナイフで自分の眼を切り刻もうとした。手術後のことだ。
家族も、友人も、執刀した医師さえも、誰もが信じて疑わなかった。
「見えたほうが幸せに決まっている」と。
彼は「光を得る」のだと。
しかし厳密には、それは「闇を失う」ことをも意味していた。
「彼」と書かれるその人は、生まれたときから目が見えません。
その彼は手術を受けて、不完全ながら目が見えるようになりました。
これは世界でも稀な例で、ほとんど奇跡に近いことのようです。
だから、せっかく見えるようになった眼を自ら傷つけようとする彼の行動というのは、とてもショッキングで、理解し難いものでした。
「なぜ?」
「せっかく見えるようになったのに」
「見えた方がいいのに」
見えることが当たり前の我々には、彼の行動が理解できないのです。
「目が見えないより、見えた方がいいに決まっている」というのは、誰もが信じて疑わない。
しかしそれは悪意のない「思い込み」だった。
そこに、悪意がないからこそ怖いのです。
自分にとっての「良いこと」が、相手にとっても「良いこと」であるとは限りません。
しかし光を与えようとする者は、それが相手の闇を奪うことであることに気が付かないのです。
相手のことを思っても、
相手の立場で想像したつもりでも、
ものごとの一面しか見えていない。
自分の尺度でしか見ないから、認識できない。
他人の幸せを自分の価値観で測るのは傲慢だけれど、でも、わたしたちにはどうしたって、「自分の価値観」しかわからない。
他人のことを想像するにも、自分の価値観が介在した想像しかできない。
自分の価値観や経験を元にして、「これは捨てた方がいいよ」と言うことも、「これは持っていた方がいいよ」と言うことも、どちらもそこに悪意はなくて、それどころか、本人は「よかれと思って」言っているのです。
もしかするとわたしも、そういう発言をしているのかもしれません。
気をつけたいと思いますが、これはとても難しいことだとも思います。
本当に思い込んでいることというのは、自分がそのような「思い込み」を持っている、ということすら自覚することができないのです。