この記事は、「電子マネーのように現金を使わない支払い方法は、お金を使っているという実感が薄くなり、ついつい使いすぎてしまう」という話ではありません。
現金を使わない支払いの普及が、かえって「お金は道具である」ということを思い出させてくれるのではないか、という話です。
電子マネーの普及というよりも、「マネーは基本電子」で良いと思う
astudyinscarlet.hatenablog.com
電子マネーという言葉がなくなって、お金は基本電子、という考え方になればいいと思っている。
これは何も突飛な発想ではない。
もともとお金は「金(ゴールド)と交換できる」ということで価値を保証されていた。
しかし今では代替物である紙幣そのものが「社会的信用」のみによってお金としての地位を持っている。信用のみで成立しているのだから、紙であろうが画面上の数字であろうが同じことだ。
銀行口座の数字は、「紙幣と交換できる」ということが保証されているから、我々は安心して銀行に紙幣を預ける。
銀行口座の数字と紙幣とは同じ価値を持つが、銀行口座の数字がゴールドと違うのは、持ち運んだり保管したりする必要がないことだ(さらに言えば、ゴールドの場合は資源に限りがあるが、数字には限りがない)。
だからゴールドの場合には代替物として紙幣が用いられたが、
数字そのものを直接決済手段として使うことができれば、代替物としての紙幣は必要なくなる。
今は「紙幣」がお金で、銀行口座の数字は「いつでも紙幣に変えられる代替物」のような感じになっているが、電子マネーやクレジットカードなどの普及で、その立場は逆転しつつある。
画面上の数字こそがお金で、紙幣はその代替物となりつつあるのだ。
これは「変化」というより、「元に戻った」というべきだろう。
紙幣はもともと代替物として誕生したのだから。
ゲームの中のお金、みたいなものに近づいて行けばいいと思う
わたしはゲームをやらないので発想が貧弱で申し訳ないのだが、たとえばゲームにはゴールというか目的があって(ソーシャルゲームだと終わりがなかったりもするわけだが、ここではパッケージのRPG的なゲームを想像していただきたい)、姫を助けるとかボスを倒すということがそれにあたる。
ゲームの中にもお金があるが、それを貯めることは目的ではない。お金はあくまでも、目的のため、敵を倒すために強い武器を買うとか、そういうことに使うために必要なのである。
お金はあったほうが良いが、必要以上にたくさん貯めても仕方ない。ゲームの目的は、お金を貯めることではないからだ。
そして人生の目的もまた、お金を貯めることではない。
ゲームの場合は目的がすでにデザインされているが、人生の場合はそうではない。
目的は誰かから与えられるものではないので自分で考える必要があるが、「目的のためにお金を使う」という点はゲームと同じである。
現実には、なんとなく不安でお金を貯めるうちに、お金を貯めることそのものが目的になってしまう人もいるだろう。
ゲームの場合にはゴールがはっきりしているので、お金を貯めることそのものが自己目的化してしまう、ということが起こりにくいのだ。
お金との距離感
もともとお金というのは決済手段なのだし、ゴールドの代わりに引換券である紙幣が価値を持ち、それがゴールドと引き換えないことになっても決済手段として流通しているようなバーチャルな存在である。
貝殻や石が紙幣になったように、いずれ紙幣は画面上の数字になるだろう。
わたしはこの変化が、行き過ぎた拝金主義を是正し、お金というものへの我々の姿勢を、適切な距離感に戻してくれるのではないかと期待している。