何かのきっかけで、
「断捨離しなきゃって思うんだけど、捨てられなくって~」という会話になることがある。
こんなとき、わたしは、こうしたら捨てられるよとか、モノがないとすっきりするよとか、そういう類のことは口にしない。
わかるわかると相槌を打つ程度だ。
この人は、「捨てられない」ことを悩んでいるわけではない。
「捨てられない」感情に、共感して欲しいのである。
本気で悩んでいるのなら、そんなトーンで気軽に話したりしない。むしろ隠そうとする。
だから、「こうしたら捨てられるよ」とか、「わたしは〇〇持ってないけど△△で代用できるよ」とか、「ないほうが掃除が楽になるよ」とかの善意のアドバイスは、それがどんなに善意から出たものであってもすべてただのおせっかいとなる。下手したら反感を買う。
引越しをする人にも、「大変でしょ?」とは言うが、「それほんとに全部必要?」なんて言ったりしない。
「捨てられるわたし」が「捨てられないあなた」にアドバイスしてあげる、という上から目線がどうしても入るからだ。
対等の立場で世間話をしていたのに、突然求めてもいないアドバイスをされると、その瞬間「対等」から「上下」の関係になる感じがする。
これは断捨離がどうこうという話ではなく、何でもそうだろう。
もちろん言い方の問題もあるが、基本的には、「聞かれる前から先回りしてアドバイスする」というのはやめておいた方がいい行為だと思う。
誤解のないように言っておくと、「アドバイスを求められても教えてあげない」ということではない。
聞かれたらそれなりの回答はする。
問題は、「その人は別にアドバイスしてほしいわけじゃないかもしれない」ということだ。単なる世間話として、軽い気持ちで口にしただけで、深刻に悩んでるわけじゃない。
わたしが最もシンプルに傾倒していた頃(大学生のときである)は、特に隠していなかったこともあり、まわりにもそのことは多少伝わっていた。
今振り返ってみると余計なお世話でしかないのだが、アドバイスじみたことも多少言っていたと思う。
わたしの真似をしてモノを捨てる友人もいたし、理解できない、という友人もいた。
モノを捨てたのは、わたしの生活を間近に見ていたルームメイトである。わたしは彼女に関して言えば「持たないことのメリット」などはひとつも話した覚えがない。それでも、語らずとも何かが伝わったのだろうと思う。
「そうだよね、こんなにたくさんいらないよね」というようなことを、彼女の方から口にした。
いくら語っても伝わらないことがあるし、
実際に見ることで、何も言わなくても伝わることもある。
わたしは「持たない暮らしの良さを広めたい」とか「いろんな人に知って欲しい」とかいう風には思っていない。
ただ、わたしの生活を見て、いいなと思ってもらえることは素直にうれしい。
人にどう思われようと、自分の生活に直接関係があるわけではないのだが、否定されるよりは肯定されるほうがいい。
「捨てられなくって~」の人によかれと思ってミニマリズム的アドバイスをすることは、その人にとっては「否定された」と感じるものであるのかもしれない。
一方、「わかるわかる」と返すことは、共感、つまり「肯定」なのだ。
価値観は人それぞれ。
自分の価値観を主張することは、相手の価値観を否定するという側面を持つ。
その人が本当に望むなら、シンプルライフやミニマリストといった情報に自分でたどり着く。今はネットにも本屋にも情報があふれている。
「捨てられる人」が「捨てられない人」を啓蒙して捨てさせようとするのは、
自称「先進国」が、そうでない国を「後進国」とか「途上国」とかの名で呼び、「開発」や「発展」を強いるのと同じ構図である。
「捨てたい人・捨てられる人」と「捨てたくない人・捨てられない人」というのは単に価値観の違いであり、どちらかがどちらかの発展した姿ではない。
わたし個人としては、コレクター的な人の情熱、知識、手入れなどには敬服する。
こういう人が文化を守ったり、再発掘したりしてくれている。
わたしなどは、そういうことができないので、なるべく持ちたくない、少ないもので暮らしたい、所有のわずらわしさから逃れたいなどとのたまう存在であるから、決してこちらの価値観の方が優れているなどと思い上がらないようにするべきだと思っている。