minimalist's microcosm

ミニマリストの小宇宙

平成に花束を。古市憲寿「平成くん、さようなら」

 

 

 

この国に住むほとんどの人は「だから」や「つまり」といった接続詞を正しく使えない。

 

「平成くん、さようなら」を読みました 

 

平成くん、さようなら

平成くん、さようなら

 

 

だから感想を書きます

 

「平成くん、さようなら」は社会学者・古市憲寿氏による小説で

芥川賞候補になったことでも注目されました

 

古市憲寿氏について話すと長くなるので

本の感想だけ書きます

 

ちなみに私は

平成生まれです

 

 

サカイ、ディオール、ドリスヴァンノッテン

 

当然意図的にやっていることと思いますが

固有名詞がこれでもかと散りばめられています


アパレルブランド、店、ホテル、企業、雑誌、TV番組、アプリ、ゲーム、ガジェット、

実業家、ヒット歌手、アナウンサー、現代美術のアーティストまで

 

ブランド名の列挙には

「なんとなく、クリスタル」を思い出さずにはいられません

 

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

なんとなく、クリスタル (新潮文庫)

 

 

しかしこの小説には

地に足がついていないような不思議な感覚があります

 

「なんとなく、クリスタル」はある時代のリアルであったのに対して

「平成くん、さようなら」はファンタジーのように感じるのです 

 

(「なんとなく、クリスタル」の時代を知らないので、実際は違うのかもしれませんが)

 

ファンタジーみたいなリアル

 

平成くんは文化人として売れていて、

愛ちゃんは「父親が残したビッグコンテンツの著作権」という「資産を生み出すもの」を持っています

 

特に愛ちゃんの方は

一応仕事はしているのですが

働いてサラリーをもらうというより

まるで使っても使い切れないほどのお金が勝手に湧いてくるかのようで

そのあたりもファンタジー感に貢献しているかもしれません

 

ただ

家賃130万円の都会のタワーマンション

ハイファッションに高級レストランといった

アッパークラスな暮らしぶりは差し引いても

 

2人の暮らしは

まるでSFのようです

50年前に描かれた近未来だと言われれば納得してしまうでしょう 

  

最新のテクノロジーが当たり前に日常に溶け混んで

管理が行き届いて

都会的で清潔で

生々しいものはそこにはないのです

 

2人の生活を

「作りもののよう」だと感じるのは

私だけではないでしょう

 

平成くんはピーマンの栄養はサプリメントで採れると言い

愛ちゃんは睡眠のために薬を服用する

 

食欲、性欲、睡眠欲さえも

ある程度コントロールすることが可能で

それが合理的ならそうすることが自然であるという価値観に感じます

 

そんな風に日々の生活をコントロールする様は

散りばめられたテクノロジーやサービスの固有名詞も手伝って

まるでSFのように感じられるのに

それは現実なのです

 

たしかに

グーグルホームやUBERが 完全に日常の一部になっている人は

まだ全体の数パーセント程度だと思います

 

それでも

そういうテクノロジーやサービスはすでに存在しているし

そういうものがあることも我々は知っている

「AIスピーカーに聞く風に質問して遊ぶ」というくだりさえ

すでに経験しているのです

 

Amazonで買い物して

食べログで店を探して

ラジオからはDA PUMPの「U.S.A」が流れる

 

現実世界の話を読んでいるはずなのに

どうしてこうもSFのように感じられるのか

白い陶器の骨壷までが

SF映画のハイテクガジェットみたいに見えるのか

 

それはおそらく過度な清潔さにあって

 

そのような「洗練された」暮らしをする2人が

「死」という生々しいものについて考えるということが

良くも悪くも違和感として機能していると思います

 

「死」は権利?

 

以下は平成くんがTV出演で語った言葉です

 

そもそも死刑制度って、死を権利ではなく、刑罰として考える点で、あまりにも時代遅れですよね

 

私は「死刑」は刑罰として「重すぎる」ようにも「軽すぎる」ようにも感じています

どういうことかというと

 

・死は誰にでもある。誰ひとり殺さず、盗まず、姦淫せず生きてきた人にも、死は訪れる

・誰にでも訪れるものを与えることが果たして罰として機能しているのか?

 

ということなのです

 

ただし、死刑を「死を与える」ではなく「余生を剥奪する」と考えればこの違和感は解消できます

こう考えれば「死を刑罰として考える」ことにはなりません

 

一方、「死を権利として考える」のはどうでしょうか

 

・人間には人権がある、人間らしく生きる権利がある

・人間は必ず死ぬから、「死ぬ」ことは「人間らしく生きる」ことに含まれる

 

こういうロジックを使えば

「人間には死ぬ権利がある」

と言うことができてしまう

 

いつでも好きなように、と付け加えるのは尚早だと思いますが

少なくとも

「死ぬことを許されない」ことは

「人権に反している」と言えそうなのです

 

ちなみに村田沙耶香さんの短編では

人間が「寿命で死ぬ」ということがなくなって

自分で死ぬタイミングや方法を決める世界が描かれています

 

殺人出産 (講談社文庫)

殺人出産 (講談社文庫)

 

 

生き続けてもいいし、死んでもいい

つまり、死ぬことは本人の自由で、権利として認めらているのです

 

人間は合理的になりきれない

 

ここから先はネタバレになるのですが

平成くんが安楽死を考えた本当の理由は

「平成が終わるから」ではなく

失明に至る病気でした

 

死ぬことを考えたのも

病気が原因だというのです

 

これによって平成くんは

「性的接触を嫌い、安楽死を望む、常人には理解のできない人」から

一気に「わりとふつうの人」になってしまいます

 

目が見えなくなるのはたしかに怖いことだし

それなら死んだ方がいいと

思ってしまったのかもしれません

 

私にはそのような経験がないし

仮にあったとしても

他人の気持ちを完全に理解することはできませんが

 

作中には

平成くんが「情熱大陸の落合くん」の真似をしてストローでカレーを飲むという描写があります

 

つまり平成くんは

落合陽一氏が描く

テクノロジーで障害を克服できるという可能性を

おそらく知っているはずなのです

 

知っていながら「目が見えなくなるから、死んだほうがいい」と考えるのは

とても合理的とは思えません

(そうでなくとも、死んだほうがいいとは思えないのですが)

 

ここに人間の不条理を感じます

 

あれほど合理的に見えていた平成くんは

計算でも論理でもなく

人間味あふれる不合理な感情によって「安楽死」なんて考え出したのです

 

「グーグルは僕そのもの」

 

平成くんは、自分のスマートスピーカーを残して姿を消します

答えてくれるのが平成くんなのか彼のAIなのかはわからない仕組みです

平成くんが生きているのか死んでしまったのかは

わかりません 

 

こうすれば「死」や「別れ」を曖昧なものにできる

 

「命の死」ははっきりしているけれど

「社会的な死」はゆるやかです

 

肉体を失っても

あるいは

あえて肉体を失うことで

生死を超越し永遠に存在し続けることができる

 

この展開も一見SFっぽいのですが

今度は反対にあまりSFっぽさを感じません

もうそういう時代が目前まできていると

どこかで思っているのかもしれません

 

私が明日死んでもこのブログは残るし誰かが読んでくれる

私がもう死んでしまっているとしても誰も気づかない

予約投稿で記事が更新されれば

本人がもう死んでいるなんて夢にも思わない

もし私のAIが存在して記事を書き続けるのなら

少なくともネット上では

私は「生きている」ように見える

私のブログを読む、私と会うことがない人たちにとって

私が生きているかどうかは

果たして重要なことなのだろうか

 

そう考えてみると

我々はすでにそういう世界に片足を入れていることに気がつきます

 

(「平成くんホーム」を作った松尾さんも、実在の人物です)

astudyinscarlet.hatenablog.com  

 

平成に花束を

 

平成最後の日

彼女はスマートスピーカーのコンセントを抜きます

これはいわゆる「別れ」のシーンになるわけですが

驚くべきことに

2人の別れにもかかわらず

片方だけしか存在していません

「人間関係」には必ず2人以上が必要なのですが

それすらも

変わってしまったようです

 

コンセントを抜くように

簡単に終わらせることができる

もちろん彼女の心は簡単ではないのでしょうが

会って終わりを告げるような別れと比べると

悲しいほど簡単です

 

別れは一方的です

というより

お互いのタイミングで別れているのかもしれません

平成くんにとっては、愛ちゃんの前から姿を消したとき

愛ちゃんにとっては、スマートスピーカーのコンセントを抜いたとき

 

この間にある「猶予」とも呼べそうな期間、

これもひとつの「殯(もがり)」なのでしょうか

 

 

(映画「her」は人工知能と恋愛する話)

  

 

花束を撒くところは印象的です

平成くんだけでなく

平成という時代に向けられた funeral のように感じます

 

鮮やかな花々とは対照的に

電源を失ったスマートスピーカーの姿は

白い陶器の骨壷とどこか重なるものがあります

 

「安楽死」の条件

 

私は「自分でものを考えることができなくなったら死なせてくれ」と思っていました

しかし「自分でものを考える」とは一体どういうことでしょうか?

 

人間はひとつの機械にすぎません

もちろん人間が作るようないわゆる機械よりは

はるかに緻密で手の込んだ機械です

(それにしては間違いが多いような気がしますが) 

 

自分で考えているつもりでも

与えられたインプットに対して

自分という機械が勝手にアウトプットしているだけなのかもしれなくて

(仏教では、無我といいます)

 

astudyinscarlet.hatenablog.com

 

 

だとすると

私はすでに「自分でものを考え」てはいないということになってしまいます

しかし「死なせてくれ」とは思いません

まだ死ぬには早すぎます

 

これは矛盾しているのでしょうか?

 

だとすれば私は

「自分でものを考えることができなくなったら死なせてくれ」という願望を

撤回するべきなのかもしれません

 

望みは「生きていること」ではない?

 

シェリー・ケーガン氏の本には

我々が望むのは「生きていること」ではなく

「生きていることから得られる何かを得ること」である、

とありました

 

astudyinscarlet.hatenablog.com

 

 

ところで

「生きていることから得られる何かを得る」ということが

「死んでいても可能」であるとしたら

 

たとえば自分の望みが「他者に影響を与える」ことなのだとしたら

それは可能なのです

 

平成くんスピーカーもそうですが

故人の書いた本とか

そういう例はこれまでにもたくさんあるのです

  

私は「他者に影響を与える」ことを望みますが

それだけではなくて

自分が他者から影響を受けたいとも思います

それは自分が死んでしまったら叶いません

だからやっぱりまだ死にたくないです

 

アーカイブとオリジナル

 

平成くんのように

著作やLINEの履歴といった自分のアーカイブから

「自分のように話すスマートスピーカー」を作るということは

おそらく可能になっていくでしょう

 

私が今PCに打ち込んでいるこの文章も

私のAIが同じものを書くことができるのかもしれません

 

「自分と同じ出力をする機械」と「本物の自分」との違いを考えることは

生きる意味を考える上できっと有用だと思います

 

僕たちは普段「想定」の中を生きている。僕の行動も、ほとんどは「想定内」のはずだ。「想定」は僕のアーカイブから構成される。

 

私は生きているので

ある日突然何かに夢中になって

ブログの更新をやめてしまうかもしれませんが

 

前述したように私のAIが存在して

私の代わりにブログを書いているのなら

そういうことはおそらく起こりません

 

生きることは「想定外」を起こすこと、なのかもしれません

 

だから感想を書きました

 

この記事は

「当時の人々はこの本を読んでどう感じたのか」という

サンプルのひとつです

 

感想だけと言いつつ

長々とまとまりのないものになってしまいましたが

きちんとまとめようと努力しているうちに平成が終わってしまうかもしれないので

このまま公開します

 

この本が「今」読むべき本であるように

この感想もおそらく「今」書くべきです

 

少しでも興味を持たれた方は

平成が終わる前に

手にとってみてはいかがでしょうか

 

平成くん、さようなら

平成くん、さようなら