minimalist's microcosm

ミニマリストの小宇宙

ミニマリストになるまで

 

 

 

シンプルとかミニマムということを考えるようになったのは今から約7年前。

当時は「ミニマリスト」という言葉は知りませんでした。

 

「自分の部屋を快適にしたい」との思いで、様々なサイトや雑誌を見ましたが、気に入るものがない。

それどころか、自意識の権化のような「こだわりのオシャレ部屋」に違和感を感じ始めました。

 

そんな中で見つけたのが、mixi内の「物がない部屋が好き」というコミュニティでした。

ここの参加者は今で言う「極限」に近い人々で、部屋には本当に必要なものだけしかありませんでした。

(寝袋とパソコンだけ、のような感じだったのですが、その後、断捨離が流行ると、コミュニティの参加者が増えて雰囲気が変わってしまいました。卒業アルバムはどうしてますか?とか。)

 

まだミニマリストという言葉を知らない私は、自分が目指すべきは「シンプルライフ」なのだと思っていました。

「少数精鋭のお気に入りだけで暮らす」シンプルライフは、私にはとても合っているように思えました。

ですが、私のシンプルライフは、モノこそ少ないものの、全然シンプルじゃなかったのです。

 

「お気に入り」を探す日々、仮初めのシンプルライフ

ほんとうに気に入ったいいものを、手入れして後生大事に使うシンプルライフを夢見て、「お気に入り」と呼べるものを探しました。食事や旅行より、とにかくモノ。常にモノのことを考えていました。

 

そんな状態でしたが、それ以上に捨てていたのでモノは少なかったです。

(部屋に来た友人はみんな驚く。TVもPCも冷蔵庫もないので。家電は電気ケトルだけ、備え付けの本棚や引き出しもすべて空でした。ゴミ箱を捨てたときはルームメイトも笑っていました)

 

いちばんのお気に入り、にこだわりつづけ、2番目以降のものはどんなに気に入っていても捨てました。

しかし2番といえども好きで買ったもの、しかも高かったりもして、葛藤しながら捨てました。

そこに不満が残るため、さらに気に入るものを探して、買って、捨てて、そんなことを繰り返していました。(どうかしてますね、21世紀の病気でしょうか)

 

常にいいものがないか探し続けていたのです。

今もっているものすべてを捨ててもいいと思えるような、「なにかすごくいいもの」を。

そんなものは存在しないのに。

 

モノに執着していることの自覚はありましたが、愛用品がないなんてつまらない、という思いのほうが強かった。

当時は、お気に入りでないものをもつことが許せませんでした。

私が死んだら、美しい遺品となるもの、すこしのお気に入りだけを持ちたいと願い、ペン1本、タオルの1枚にいたるまでこだわろうとしました。

だからいつもモノのことを考えていたし、私が美しいと思えない所有にイライラしました。

 

お気に入りを持ちたい、それ以外は持ちたくない、というのは、モノに対する思いが両極に対してとても強い生き方。

お気に入りじゃないものは持ちたくない・・・

でも、そもそも持ち物すべてがこだわりぬいたお気に入りじゃなきゃダメなんて、逆に苦しいのでは?

 

そんなふうに思い始めたのは、時間とお金をかけて揃えた「お気に入り」でも、すぐに飽きてしまうことが多かったからでもあります。

これまでにかけた労力は無駄になるし、また新たなモノをさがすのも大変です。世の中には自分がまだ知らない素晴らしい製品がたくさんあるし、新しい商品も次々出てきます。こだわればキリがない。

 

お気に入りってそもそもなんだっけ?

自分がほんとうに長年つかっている品物は、特に気負って手に入れたものではありませんでした。

(あなたがずっと使っているものについて考えてみてください。それを買うとき、「これは一生モノだ」なんて思いましたか?)

 

愛用品はすでに、身近にあったのです。探す必要なんてなかった。

そしてその愛用品たちは、デザインがいいなどの理由ではなく、自分にとって必要だから持っているものでした。

お気に入りは買うものではなく、使うことで、自然とそうなっていくものだとわかったのです。

 

仮初めのシンプルライフから脱却。

そもそものシンプルライフにもすこし疑問を感じていました。

これがほんとうに私のしたい生活なのだろうか?

持ちものすべてが選びぬかれたお気に入りになったら、それで満足なのだろうか?

 

そんな風に思い始めたころ、「ミニマリスト」という言葉を知り、これまで抱いていた違和感の正体をつかみました。

本当はわかっていたけど、認めたくなかったことを、ようやく受け入れることができた、という感覚です。

 

私はずっと待っていたのです。いつか理想のシンプルライフを送る日が来るのを。そのために準備をし続ける日々でした。

 

本当は、「そんな日は来ない、生活は、今日の延長でしかないのに」と、うすうす気づき始めたにもかかわらず。

今の私は、あるものを使えば十分、と思えるようになりました。

あるものを使い、ライフスタイルが変わったら、いつでも手放せる、そのときに必要なものをすこしだけ持つ、そんな身軽な生き方をしたい。モノに拘泥せず、いつでも、どこでも、自由に、楽しんで生きたい。

 

ものにこだわらないことで、楽になりました。お気に入りは人生を楽しくしてくれます。

でも、少しでいい。それが人生の目的になってはいけないのです。

(こだわらない、というのは、執着しない、ということです。適当に選んだり、雑に扱うということではありません)

 

いつまでも「おしゃれで一生使えるフライパン」を探し求めるよりも、今持っているフライパンを大事に使って暮らすほうが、よほどシンプルライフに近い考え方だと思います。

 

今では、ほしいものはほとんどありません。

かわりに、よみたい本や、やりたいこと、行きたい場所などに目が向くようになりました。

ミニマリストであろうとすることにも、執着はありません。

「ミニマリストになりたいからものを減らす」のでは、単に執着の対象が変わっただけだと思います。