ミニマリストの小宇宙

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ミニマリストの小宇宙

minimalist's microcosm

ポーランドの鯉

わたしがまだ小さい頃、庭の池には鯉がいて、だからわたしには鯉は特別な生き物だった。人間以外ではいちばん身近な生き物。そしていちばん遠い生き物。絶対的な他者。水のなかに、別の世界にいる。彼らと目が合うことはない。わたしは別の世界を上から眺めている。足を滑らせれば、簡単にわたしは別世界に落ちてしまう。そうなったらわたしは死んでしまうのだ。池が深くないことは子どものわたしにだってわかっていた。それでも、落ちたら死ぬのだろうと思った。それは単なる水の中とは違う。鯉の世界なのだから。池の鯉を見るとき、わたしは死の淵に立っているような心地がする。水の中、わたしにとっての死の世界に生きる鯉。水の外では生きられない鯉。その境界はすぐそこにあって、わたしと鯉を絶対的に分かつものでありながら、どこか曖昧なようにも感じる。触れてしまえば簡単に、世界の規律が壊れてしまうような気がする。鯉には、畏怖、とか、畏敬の念、とかいう言葉がしっくりくる。艶めかしい躯体。異教の神の姿。わたしにとっての鯉は「他者」であり、「死」であった。

池の鯉は一匹ずつ死んだ。あるときは、近所の猫に生け捕りにされて、軒下で食われていたらしい。わたしは鯉の死体を見たがったが、両親は絶対に見せてくれなかった。鯉が死ぬのはよくあることだったが、死体はいつだって巧妙に隠された。食べられた鯉はどんな色をしていたのだろう。鯉の血はおそらく赤いのだろうが、わたしには、鯉に血が流れているとはとても思えなかった。鯉の中身はきっと真っ白だ。歯も骨もない。ささみのような白い身の紡錘形。重い躯体のその中心には、まるで死のような空洞がぽっかりと広がっているのだ。

今にして思えば、そんなことをしてよかったのだろうかと思うが、鯉が死ぬと、祖母は鯉の亡骸を新聞紙に包んで、それを柄のついた網に入れて、近くの川に流しに行っていた。川と言っても、石がごろごろした浅い川である。新聞紙の鯉はその川を不器用に流れていった。つかまえて、中を開いてみたい。しかし川の流れは見た目より速く、とても子供では追いつけない。それに、そんなことをするのはひどく罰当たりなことのように思えた。テレビの中では、飼っている金魚などが死ぬと庭を掘って墓をつくってやっていたが、もしもうちでそんなことをしたら、せまい庭の下にはどこもかしこも鯉の死体が埋まっていることになってしまう。赤や黄色や白や黒の、鮮やかな死体でいっぱいの庭。

鯉の夢もよく見た。なかでも印象的だったのは、家族でどこかへ行った帰りに、知らない民家に立ち寄るという夢である。そんなところに行く理由もないのだが、夢とはそういうものだ。もうすっかり夜で、あたりは真っ暗である。民家の敷地内には四角い井戸があり、そこをのぞき込むと、遠く深い場所に水面がある。 水のなかには2匹の鯉がいた。それは金と銀の巨大な鯉で、2匹は互いを追いかけるように円を描いて、ゆっくりと規則的に旋回していた。その悠然とした姿。四角い枠から、わたしは、この世の果てを見ているような気持ちになる。暗闇の中、深い深い場所で、ゆっくりと旋回する2匹の鯉。これは世界の心臓に違いない。

池の鯉はだんたん減っていき、最後の1匹になった。最後に残ったのはいちばん小さな鯉で、白い体に赤い模様がついていた。最後の1匹はなかなか死ななかった。小さいものは強い。やがて最後の鯉も死んで、池の水もなくなった。

ポーランドでは、クリスマスに鯉を食べるという。わたしにとって鯉を食べるということは、他のどんなグロテスクな生き物よりも抵抗がある。犬や猫はペットだから食べないとか、そういうのとも違う。わたしにとって鯉は神に近い存在だ。別に信仰しているわけではない。ただ、畏怖を感じているという点では、神話の神様よりも神に近いと感じている。崇め奉るということではなく、「タブーである」、という感覚に近い。ポーランドの家庭では、クリスマスが近づくと、バスタブに鯉を入れて泳がせる。鯉の臭みをとるためだそうだが、その光景は、おそらくクリスマスの風物詩でもあるのだろう。

バスタブの中の神様。クリスマスにはうってつけかもしれない。