※ 途上国という言葉はそれだけで思想を含むので避けるべきですが、この記事では便宜上「先進国」「途上国」と呼んでいます。
「フェアトレード」という言葉に違和感がある。
この言葉が、途上国側のシュプレヒコールとして使われるのならばなんの違和感もない。しかしフェアトレードを声高にアピールしているのは先進国のほうだ。
- フェアトレードとは
- 「適正な価格」は誰が決める?
- 「フェアトレードが価値になる」ということの意味
- フェアトレードの途上国、ブラック企業の先進国
- フェアトレードという言葉がなくなるとき=この構図が崩れるとき
フェアトレードとは
発展途上国の原料や製品を適正な価格で継続的に購入することを通じ、立場の弱い途上国の生産者や労働者の生活改善と自立を目指す運動である
フェアトレードのチョコレート。
理想としての「フェアトレード」と、「フェアトレードの名のもとに現在行われているビジネス」は分けて論じる必要があると思う。
「適正な価格」は誰が決める?
「適正な対価」は市場に求めるべきか?
政府や業界団体が決めていいのだろうか?
そもそも、こちらが「適正価格」を一方的に決めているのは「フェア」といえるだろうか?
これではフェアトレードというより保護貿易に近い印象を受ける。ただし、目的は保護とは間逆である。
「最低買い取り価格」は、むしろカルテルと考えることはできないだろうか?
みんなで、「ここまでなら買い叩いていい」という水準を決めているのだ。
先進国側は、常にいちばん安い価格で取引をすることができる。ライバル企業と競争をする必要もない。
それでいて「適正価格」であるという免罪符を得ているので、大手を振って「フェアトレード」を謳うことができる。それが国際平均よりはるかに安い価格であっても。
「フェアトレードが価値になる」ということの意味
「フェアトレードを売りにする」ことは、圧倒的な搾取を前提に成り立っている。
フェアトレードではない取引が存在しなければ、フェアトレードを差別化することはできない。フェアトレードが当たり前のことになれば、フェアトレードのロゴマークは魅力を失うだろう。
だから本当のフェアトレードは実現できない。
フェアトレードというブランドタグを無効化したくないのだ。
フェアトレード製品を買う人の多くは、「ちょっといいことした気分」に対してお金を払っている。ストーリーがなければ、似たような商品のうちわざわざ価格の高い方を選ぶことは考えにくい。
「フェアトレード」という価値が必要だから、「フェアトレードでない取引」を駆逐することができない。フェアトレードという言葉が、「途上国を途上国の地位に留まらせる」インセンティブを生むのだ。
フェアトレードの途上国、ブラック企業の先進国
先進国の企業は、機械化や大量生産などでコストを下げ、さらには海外工場などで人件費を抑えるという「企業努力」をしている。
下請け企業に対して、アンフェアな取引も行っているかもしれない。
ブラック企業などは労働者からの搾取である。フェアトレードについて考えるとき、このことを想起せずにはいられない。
「わが社は取引先や社員に適切な対価を支払っています。だから消費者のみなさまも我々の商品に適切な対価を支払ってください」というのは、消費者に対して有効なアピールだろうか?
もちろん、経済的に余裕があり、意識も高い消費者であれば有効だ。しかし大半の消費者にとっては、その企業の社員の給料よりも、自分たち消費者に提示される価格のほうが重要だろう。
「企業努力によって、安く提供できます」というほうが、耳に聞こえがいいのではないか?
本当に「正当な対価」を支払っているかは消費者の側からは見ることができない。
このことはフェアトレードもブラック企業も同じだ。実際のところは、外からはわからない。
全企業が「フェアトレード」を行えば、我々は豊かになれるのだろうか?
フェアトレードという言葉がなくなるとき=この構図が崩れるとき
フェアトレードの本来の理念には賛成だし、フェアトレード製品を買うことをどうこう言うつもりもない。
ただ、「フェアトレード」が魅力として機能するということがどういうことなのか考えると、単純に「ちょっといいことした気分」になることができない。
本当のフェアトレードは「施し」でも「ブランディング」でもない。まして「搾取」であってはいけない。
公正で公平な取引は、先進国・途上国に限らず、すべての企業間、すべての企業と労働者の間での普遍的な考えであるべきだ。
フェアトレードが当たり前のこととなれば、「フェアトレード」という言葉は歴史上のものとなるだろう。
そのときは、「フェアトレード」という付加価値ではなく、商品の魅力で勝負しなければならない。
もしかしたら、そちらのほうが厳しいことなのかもしれない。
だけど、先進国相手の貿易が彼らの幸せにつながるのかどうかだって、本当はわからない。
そしてこれから先、いつまでもこちらが「選ぶ側」であるとは限らない。