去年の12月、行きたかった場所に行ってきた。
岐阜県関市にある根道神社の池、通称「モネの池」。
この場所を知ったのはその時からちょうど1年前、2015年の忘年会の席だった。
たまたま隣に座った、いつもは会わない部署の人が写真を見せてくれたのだ。
ぜひ行ってみたいと思ったものの、特に行動することもなくそのまま忘れてしまった。
年の瀬になり、「何かやり残したことはないかな」と考えていて、ふと思い出したのがこの場所であった。
きれいに見えるかどうかは、季節や天候にもよるらしい。
今の季節は桜も紅葉もない。
それでも、一度その気になったら機を待つ気分にはなれなかった。
めずらしくわくわくして、「SNSで話題になった場所へ(しかもちょっと遅れて)出かける」という若干の恥ずかしさなどはすっかり忘れていた。
次の休みを利用してさっそく行くことにした。
昔だったら、写真を見るだけで、「いつか行きたいなあ」で済ませていたかもしれない。
しょっちゅう遠くへ出かけるというわけではないが、以前よりもフットワークが軽くなっていると感じる。
季節柄か、思ったよりも人が少なかった。
もっと観光地化されているかと思ったが、思った以上に商売気がない。
神社の池だから当然といえば当然だが、入場料みたいな野暮なこともしていない。
湧き水だから綺麗なんだよ、でも昨日雨が降ったから少し濁っているね、今日は寒いから、鯉もあまり動かないね、紅葉の時期に来るときっともっと良いんだろうね、と物知り顔で語る人。
きれいと感嘆する人。
写真の方が綺麗だったね、とがっかりする人。
三脚を立ててカメラを構える人。
ハート柄の鯉を探してはしゃぐ人。
スマートフォンで写真を撮る人。
辺りの植物の名前を推測する人。
観光客はみな思い思いのことを憚りなく口にし、パシャパシャ写真を撮って帰っていく。長居はしない。
その中に一人、ただ静かに池を見ている男性がいた。
写真を撮るわけでもなく、ただ眺めている。
ほかの人の邪魔にならないように、ときどき場所を変える。
なんかいいなあと思う。
これが正しい態度なのかもしれない。
きれいなものを見たときの反応が、「さっとスマホを出して写真を撮る」である自分。
きれいなものを保存したいという傲慢。自分のものにしたい。この瞬間を切り取って、自分のものとして持ち帰りたい。
あとで見る写真のために、世界と自分との間にフィルターを介すること。
どう切り取るかに夢中になり、四角いフレームの外には目が行かなくなること。
あるいは、目の前の景色を、すでに目にしたインターネットの写真と比較してしまうこと。
それでも、真に豊かであるとは言い難いこれらの行為がなければ、そもそもこの景色を知ることはなかった。
わたしは誰かが撮った写真を見てここへ来て、似たような写真を撮る。
そしておそらく、同じように写真を公開するのだろう。
もしかしたら、その写真を見てここへ来る人もいるかもしれない。いや、今更それはないか。
そんなことを考えながら、ミーハーな観光客のひとりであるわたしはスマートフォンで撮影に興じ、間抜けなシャッター音を響かせた。
空は薄曇り。
日が差すと、鯉の影が水底に映る。
鮮やかな錦鯉も良いが、普通の黒い鯉が美しい。
鯉は真上から見ることが多いが、そうすると黒い鯉などはただ地味なだけで、鮮やかな鯉の引き立て役にしかならない。
ここではいろいろな角度の姿が見える。
紫がかった体の濃淡や、ひれの造形までが透き通る。
水面には神社の木々や空の雲が映る。
インターネットで見た鮮やかな水色の写真に、さすがにそれは嘘だろう、と思っていたが、快晴の空が映ったらあの色になるのかもしれない。
ふつうにシャッターを押すだけで、絵画のような雰囲気。
この日は曇っていたが、ちょっとした光の具合でも色が変わる。
風が吹き、水面にさざなみが立つ。
鯉の跳ねた場所から輪が広がる。
木から枯れた葉が落ちる。
季節や時間帯によって、きっと様々な表情を見せるのだろう。
冬の池は、モネというより日本画のよう。
12月の景色にも風情があるが、やはり睡蓮の咲いた鮮やかな景色も見てみたい。
季節が巡ったらもう一度訪れてみようと思っている。