minimalist's microcosm

ミニマリストの小宇宙

藪医者

 

 

 

欠損も、空白も、私から失われたものではなく私の持ち物なのだ。

(赤坂真理「コーリング」)

 

世間ではポジティブであることが善とされ、やたらともてはやされているが、わたしは劣等感とか焦燥感とか嫉妬とか羨望とか後悔とか、そういう重苦しい、ネガティブな感情こそ大事にすべきであると思う。悲しみも苦しみも、ものを書く身においてそれらは非常な財産である。

 

足りないものは足りないままでいい。餓えたままでいい。仮にすべてが、何もかもすべてが満たされてしまったなら、あとは死ぬだけのような気がする。何も書くことができなくても、満たされているならそれで仕合せであると言えるかもしれない。たしかにそうだろう。しかしそれでもわたしは何かしら書き残したく思う。ミームであるとか、たいそうなことを考えているわけではないが、たとえ苦しみながらでも何か書いていたいのである。それに何の意味があるかと問うことはナンセンスである。その問いの意味するところは、なぜ生きるのか、という問いとおそらく同じだからだ。

 

生きるために書くことが必要なわけではない。しかし書くことが生きる糧となる人はおそらく一定数存在する。ものを書くというのは、何か崇高な自己犠牲的なことではなく、むしろ欠損を補わんとするための行為、つまりは自己治療的な行為であると言える。創作者は皆自己の精神のための藪医者であるのだ。そうして作られた中にも、すぐれた作品というのがあり、こういうものは創作者本人だけでなく多くの他人をも救うことがある。そういう場合にその人は、その他大勢の藪医者たちとは区別され、創作者としての評価を得るのである。文学だけでなく、すべての芸術はすべからくこの構造を持っているのではないかと想像する。

 

わたしは自身の精神の藪医者として、ネガティブな感情こそ丁重に扱ってやるべきであるとの助言をしたく思う。少なくともわたしにとって、それらはかけがえのない財産となるだろう。それらを書くという行為に昇華させることが、何の不足もない満ち足りた生活以上の悦びをもたらすだろう。だから足りないままでいい。餓えたままでいい。創作をする人というのは皆何かしら足りない人なのだ。すべてにおいて満たされた者の芸術を、わたしは信じない。