会社の子が、「旅行に行くとストレス発散になる」と言っていた。
彼女の意見はいたって普通、むしろ多数派なのであろうが、わたし自身は「旅行でストレス発散」などとは思いもよらなかった。
考えてみれば、そもそも「ストレスを発散したい」という思いもあまりない。
だから「ストレス発散のために何かをする」という発想もないのだろう。
わたしは旅行が苦手だ。
わたしにとっては、旅行へ行くことの方がストレスだ。
旅行の計画、荷造り、いつもより重い荷物を持っての移動、バスや飛行機の時間を気にしながらの行動、お土産は誰に何を買うべきか、どのタイミングで買えば荷物にならないか。
天候や予定を考慮した服装を考えることだけでもかなりのストレスであり、これだけでもわたしの旅行意欲をそぐには十分である。
そもそも生き物にとって、環境の変化というのはたいへんなストレスであるはずであるから、「旅行へ行くことがストレスである」というのは、あながち間違いではないのだ。
ではなぜ旅行に行くのか。
逆説的になるが、それは「旅行がストレスだから」ではないかと思う。
適度な刺激、日常にちょっとした負荷をかけるようなイメージだ。
適度な高揚感・緊張感のある旅行は、ぬるま湯のような日常からは得られないストレスを与えてくれる。
そしてその大部分は、「環境の変化」がもたらすものではないかと思う。
東浩紀氏によれば、自分を変える方法はただひとつ、環境を変えることである。
「あなたは、もっとも一緒に時間を過ごしている5人の平均である」という言葉を聞いたことがないだろうか。
東氏によれば、東大に合格したいなら、東大合格率がもっとも高い塾に行くべきなのであり、それは指導がすばらしいからとか講師の質がいいからとかいう理由ではなく、「人は環境の生き物だから」なのだ。
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アウトプットを変えるには、インプットを変えるしかない。
その方法は「検索ワードを変える」ことであり、そのために役立つのが「外国に行くこと」であるという。
大人は先入観でものを見ているから、「旅行によって環境を変えることが手っ取り早い」のだ。
もうひとつ、同じではないのだが、わたしがこれに通じると思っている話がある。
仏教には「無我」という言葉がある。
これは、修行によってたどり着く境地のことではない。
ざっくり言うと、もともと「自分」なんて存在しない、という意味である。
自分が「自分の感情、自分の意見、自分の思考」だと思っているものは、すべて能が勝手に反応しているのにすぎない。梅干しを見て唾液が分泌されるのと同じように、子猫を見たら可愛いと思う、暴力を見たら嫌だと思う、という反応を、脳が勝手にしているのであって、そこに「自由意志」はない。
今日はあの人に何を言われても怒らないようにしよう、と思っても、やっぱり怒ってしまう。起きたいのに起きられない。死にたくないのに死ぬ。自分の心、自分の感情、自分の体なのに思い通りにならない、この感情は、体は、自分のものではない、自分なんてものは本当は存在しない、つまり、無我。という感じだ(いろいろ間違っているかもしれないが、わたしはそう解釈している)。
自分というのは、一個のデバイスでしかない。
見たもの聞いたものに、脳が勝手に反応する。
体も感情も、自分が「そうしたい」と思う間もなく勝手に動かされる。
コンピューターに値を与えて、何かが出力されるイメージだ。
反応を変えられないなら、与える値を変えること。
つまり、アウトプットを変えるにはインプットを変えること、なのである。
わたしは、自分というデバイスが、どんな出力をするのか見てみたくて、旅行に行っている。
ウユニ塩湖にさして興味はないが、それを見たとき自分が何を思うのか、ということにはたいそう興味があるのである。
旅行に行くのは面倒だけど、「旅行に行く」という入力値が欲しいから行く。
まだ見たことのない反応を得るためには、まだ見たことのない経験が必要だ。
それが旅行であり、知らない土地へ行くということなのだ。
もちろん旅行にいけば、疲れるばかりでなく、楽しかったり面白かったりもするだろう。
旅行の素敵な副産物である。