何かを好きになるということは孤独である。
好きになればなるほど、同じ次元で話のあう人がいなくなる。
たとえばふとしたきっかけで、「捨てられなくってー」みたいな会話になることがある。わたしはこのブログに書いているようなことは決して言わない。ただ話を聞き、相槌を打つ。
そういうとき、違う場所にいると感じる。どっちが偉いとかいうわけではないけれど、ただ、わたしは同じ場所にはいない、と思う。悲しくはない。優越感とも違うのだが、さめた自分がいる。今まで気がついていなかったが、これが「孤独」なのかもしれない。それは寂しさではない。まわりとぐちゃぐちゃになっていない、独立した、輪郭のはっきりした自分ひとり。
大学生の頃は、持ち物が少ないことを指摘されたり驚かれたりしたら、なぜ捨てるのかとか、シンプルの良さみたいなこととかを軽く語ってみたりしていた。しかし今はもうそういうことはしない。人にそんな話はしない。旅行の荷物が少ないと驚かれても、「そう?」と言って軽く受け流すだけだ。何か言ったところで、たぶん分かり合えない。表面だけでも伝わるように、こちらが譲歩することはできるが、それはお互いメリットのないことだ。
「わたしもダンシャリしようかなー」とか、そんな定型の会話を再現することに世間話以上の意味はない。
熱量をぶつけることができずに中途半端な主張に終始するのがわかっているから、はじめから余計なことは言わない。
おそらくわたしは、シンプルということが「好き」なのだと思う。
「シンプルおたく」と考えると分かりやすいかもしれない。
だから、自分が「シンプル」と感じないものについて、「シンプルで素敵でしょ?」という宣伝がなされていたりすると「そんなのシンプルじゃない」と反発を覚えたりもするし、頼まれてもいないのに「シンプルとはこういうことだ」と講釈を垂れようとしたりする。
これは、オタクやマニアと称される人が「〇〇のことならオレの方がもっと好きだ、オレの方がもっと詳しい」と主張するのに似ているかもしれない。
好きなものへの熱量がそうさせるのだ。
わたしは実生活ではシンプルとかミニマムとかいうことは口にしないし、ミニマリストなんて聞いたこともないという姿勢でいる。
それがお互いのためだと思っている。
ただ、もしわたしがシンプルということを好きなだけ語れる相手がいれば、存分に話してみたいと思う。