minimalist's microcosm

ミニマリストの小宇宙

相手によって態度を変えているのではなく、 いろいろな自分を外に出すために様々な相手が必要、なのかもしれない

 

 

 

平野啓一郎氏の分人主義を持ち出すまでもなく

相手によって態度を変える・態度が変わる

ということありますよね

それは 意識的であれ無意識であれ誰もがやっていることだと思います

 

これについて あるとき突然思い至ったことがあって

 

逆なんじゃないかっていうことなんです

 

相手によって自分のどの面を見せるかを変えているのではなくて

いろんな自分を外に出したくて

そのために相手を変える

いろんな人と付き合うことが必要なのではないかと思ったんです

 

人にはいろんな面があって

私は 誰か一人の人に対して自分の全てを 見せる

全てをさらけ出すということはできないと思ってます

 

他人と浅くしか関われないということではなくて

深く心を開くこともあるけれど

それは「あらゆる面で」ということではなく

「この人とは こういう面では深く交流できる」

みたいな感じです

 

このブログでは

実生活ではあまり話さないような事柄について

わりと書いていますが

 

それは

ブログを読む人と実際の私とは会うことがないと

わかっているからなのかもしれません

 

どっちが本当とかではなくて

見えている面が違うという感じです

 

そして自分というのも変化していくので

さらに新しい一面ができたりして

そうするとその面もやっぱりどこかで出したいって思うんです

新しい言動や 振る舞いを 外に出したいけれど

その相手というのは 今までの 自分を知りすぎていない方がよかったりして

だからそういう意味でも新しい出会いとかが必要なのかなと思ったり

 

たとえば

小料理屋の女将さんの前でしか見せない顔があって

そういう自分になるためには

小料理屋の女将さんという相手が必要で

 

だからそれに対して

配偶者がいるのに、みたいなのは

違うというか

 

2人に見せる面はたぶん全く違っていて

だからそういう意味では2人とも必要なのかもしれないです

 

だからといって何でも自由にしていいよってことにはならないんですけど

 

でも

それってもしかすると相手の世界を奪うというか狭めてしまう事であるのかもしれなくて

自分だけ見て欲しいっていうのはよくある普遍的な欲求ですけれど

それはつまり自分に見せている面だけしか相手は解放することができないので

だからやっぱり会社とか家庭とか社会とか

古い友人とか新しい友人とか

今この場でしか合わない人とか

いろんな人と関わりを持つことが大事なのかもしれないです

 

 

マチネの終わりに(文庫版) (コルク)

マチネの終わりに(文庫版) (コルク)