minimalist's microcosm

ミニマリストの小宇宙

「花束みたいな恋をした」は、恋愛映画のふりしてアイデンティティを破壊します

 

 

 

『花束みたいな恋をした』オフィシャルフォトブック
 

 

昨日見た映画について書きたい。

「花束みたいな恋をした」という映画だ。

 

有村架純と菅田将暉、各方面からプッシュされている話題の恋愛映画。

10代の女の子が見に行きそうな、

普段ならまず見ることのない映画。

 

実際、客席には若い女の子が多かった。

 

その映画について書きたい。

 

この映画に多くの反響が寄せられていることは容易に想像できる。

これはそういう作品だ。

 

たくさんの人が

すごい熱量と文字数で

この作品に膨大な「注釈」をつけている。

 

散りばめられたサブカル固有名詞に

一言も二言も

言いたくて仕方がない人がおそらくたくさんいるだろう。

 

ネタバレを含むが、ネタバレしてもさほど問題はない。

 

男女が出会って、付き合って、別れる話。

 

自分の価値が正当に評価されない世界を斜めに見て、

自分が認める高尚なカルチャーとか、贔屓にしているブログとかの、精神的な世界の中に生きている。

そういうものでアイデンティティを保っている。

この感じ。

理解されないことへの優越感を感じる一方で、

理解されることを渇望している。

 

そんな中、

自分の片割れのような存在と出会う奇跡。

 

同じ作者の本が好きというのでも、

東野圭吾や村上春樹では成立しない。

 

選ばれた固有名詞はまるでリトマス試験紙だ。

自分は「わかっている」側の人間だという、選民意識に近い感覚を満たす絶妙なラインナップが、その自意識をあぶり出す。

 

単にマイノリティである自覚に留まらない、

特別であるという自負。

実際にはマイノリティというのは少数派とはいえ一定の母数が存在していて、

本人が思うほど特別な存在ではなかったりするのだが。

 

これまで斜に構えていた人たちが、

斜に構えられなくなる映画。

 

奇跡的に出会ったはずの2人が、

選民であるはずの自分たちが、

5年の歳月の中ですれ違っていくという

超普通なよくある物語をなぞる。

 

じゃんけんで「紙が石に勝つ」ことへの疑問とか、

電車に乗っていたことを「電車にゆられていた」と表現することぐらいに、

ありふれた普通の話。

 

 

ただの恋愛映画だと思っていた。

実際、ただの恋愛映画だった。

そしてそれこそが、この作品がもたらすインパクトだ。

 

恋愛というのは当事者にとってはものすごく特別だが、

他人から見たらものすごくありふれている。

 

もちろん、

ありふれていることと価値がないことはイコールではない。

 

劇中にも名前が登場する菊地成孔氏の楽曲に「普通の恋」という歌がある。

それを連想せずにはいられない作品だった。

 

そして私の記憶が確かならば、

彼は「粋な夜電波」で

恋は終わる瞬間にいちばん輝く、

とも言っていた。