最近、哲学の本をいくつか読んだ。
(哲学書ではなく入門的な軽いもの)
この本にあった、「ルサンチマンがキラーコンテンツを作る」というのはすごく面白い。ミニマリストブームにもそういう要素があったと思う。
(ルサンチマン:弱い立場にあるものが、強者に対して抱く嫉妬、怨恨、憎悪、劣等感などのおり混ざった感情。やっかみ。)
ニーチェによれば、ルサンチマンの解消方法は大きく2つ。
①ルサンチマンの原因となる価値基準に隷属、服従する
②ルサンチマンの原因となる価値判断を転倒させる
これまでは、ルサンチマンに対する①の服従型の解消法として、お金持ちや成功者の表面的な部分だけを真似しようとしてきたのかもしれない。それがいちばんわかりやすいから。
成功者はこんな考え方をしている、なんていうことより、お金持ちはブランド品や高級車を持っている、という方が、はるかにわかりやすい。だけどそうやって消費をしつづけることは容易ではない。第一それでルサンチマンが一瞬解決しても、同じことがまた始まる。今はネットがあるから、羨ましい対象が次から次へと現れてくる。そうして、「なんか高いもの買ってもそんなに幸せじゃないなー」という気分に、わりと多くの人がなってきていたのかもしれない。
それに対してミニマリストは、ルサンチマン解消の2つ目の方法である「価値判断の転倒」を試みている、ということはできないか。
ミニマリストは、もっとたくさんのもの、もっと高価なもの、もっと新しいもの、もっと特別で自慢できるもの、を求める価値を逆転させている。
たくさんのものや高価で希少なものを手に入れるためにはお金という原資が必要だが、「モノを持たないミニマリスト」には誰でもなることができるという点も無視できない。ニーチェは、多くの人が支持する聖書が「貧しい人は幸いである」と説いていたことを指摘している。聖書は弱者のルサンチマンを解消したから爆発的に流行った、というのは面白いを通り越して恐ろしさを感じる分析だ。
持てないのではなく持たない、という消費者の出現は消費社会の成熟を表しているのかもしれないし、持続可能な社会への意識が高まっていると見ることもできる。
ただ、たくさんのものを持つ人(それはお金持ちや成功者の象徴でもある)へのルサンチマンを解消してくれる「ミニマリスト」が支持を集めたのにはおそらくこういう理由もあるのだろう。
もちろん、好きなものだけがある整った環境や、主体的に生きるということの魅力はある。
ただしこれはお金持ちや成功者の暮らしにもおそらく当てはまる。
そう考えると、相手を否定する必要は果たしてあったのだろうか? という気になってくる。
わざわざ「たくさんのモノを持つより少ない方が幸せ」なんて言うのはルサンチマンの解消がしたいだけではないのか。
本の中で例にあげられているように、
単に「サイゼリヤが好きだ」と言えばいいところを「高級フレンチなんて行きたいと思わない、サイゼリヤで十分だ」と言っているのと、同じことではないのか。
ただ、こうして安易に「これってこういうことだよね」と結論づけることは、オットー・シャーマーの「U理論」においては、もっとも浅い「理解レベル1」、自分の枠内の視点で考えているだけで、単なるダウンローディングにすぎないという。
なんでも自分の知っているフレームワークに当てはめるような考え方をしていては、それより先をわかることはできない。
哲学をかじったりするといろいろなものごとを次々に当てはめたくなってしまうが、それに対する警鐘はすでに古代ギリシアにある。
無知の知、ソクラテスだ。
哲学の世界は想像を絶する噛みごたえ。
なかなかわかった気にさせてくれない。